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亡くなった母が、
阪神淡路大震災のとき、言ってました。
第二次世界大戦の時、空襲があっても逃げることはできた。
事前に空襲警報が発令されるし、防空壕の用意もできた、
難を避けて空襲のない田舎に疎開することもできた。
でも天災からは逃がれられない・・・と。
戦争を知らない私にもこの言葉は理解できました。
自衛しようにもできないこともある。
震災の年の7月に母は亡くなりました。
震災を生き延びたのに、病には負けたのです。
その五月、まだ復旧途上の神戸に、母と息子を連れて出かけました。
その人生のほとんどを暮らした神戸を母に見せておきたかったのです。
彼女が築いて、息子のために手放した小さなビルもここにありました。
通りを歩くと目につくのは、つぶれたビルのすぐ横で、
壊れたウインドウに板を貼って営業を再開している店。
町を行く人みんな背中に荷物を背負い、
瓦礫の中を歩くためにスポーツシューズでした。
母の思い出のビルはもう更地になってました。
波止場から、港内めぐりの遊覧船が航行を開始していて、
海から神戸を眺めました。
私の生まれ故郷は、自然に淘汰されて多くの犠牲を払った。
人の手によるものはことごとく破壊されたにもかかわらず
自然は厳然としてそこにある。
自然に生かされている我々は翻弄され、弾き飛ばされた。
でもまた立ち上がりよちよちと歩き始めてはいる。
そして今ここで孫とコーヒーを飲んでいる母
・・・医者からはあと一月と宣告されている・・・
母の姿もじきに消えてしまう。
当然、母を含め我々の生命も淘汰される自然の一部なのだから。
その時同時に私も癌の手術をひかえていて、
切除すれば90%の確率で治癒すると言われていました。
私が手術を終えて無事に帰宅できなければ、
母を見送ってやれる人間はいなかったのです。
神戸を訪れて2週間後、
母を入院させてすぐに私も入院、手術。
私は自衛に成功し、母を送ってやれました。
身近な人間の生死について思う時、
人は一時的に必ず哲学者になりますね。
あれから15年、人の手になるネオンの町に住む身としては、
ずっと哲学してる訳にもいかず、
自分と全く同じように、矮小ながら哲学者くずれでもある人々と、
日々交歓し、また渡り合い、
あと何年残ってるんだか知りようも無い人生を、
せっせと真面目に生きています。
人知の及ばぬ世界のことは別にして、
ちっぽけな人間世界で生きてゆくなら、
よりよく、賢明に、災いは避けて通る知恵を持ちたいものです。
まずは、
毎日の暮らしの中で自らを衛る知恵を養う努力を怠らぬこと、
最近はおばさんになって、経験という引き出しが増えたせいか、
これらが身にしみてよく分かるようになってきました。